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アイコン   自伝 "The Story of a Japanese Cosmopolite"
        (「ある日本人コスモポリタンの物語」)
               
アイコン  資料室

立教女学校校長就任の頃
    (提供:本田穣氏)

「辞世の句」

西東さすらふ吾をかへりみし
 なつかしの友よすこやかにませ

ぬば玉の闇やぶりつつ吾魂は
 光もとめて天かけりゆく

青丹よし奈良にしあればなかなかに

 たのしかりけり身はやみぬとも

出典:内野倉富美子「本田先生の辞世」『英語青年』本田増次郎氏追悼号 大正15(1926)215


アイコン年譜


アイコン家系図


Copyright(c)1999-2009 Katumasa Hasegawa


 激動の明治が生んだプラクティカル・イングリッシュの俊英

 嘉納治五郎の愛弟子 講道館柔道三段
 第
5高等中学校(熊本)・高等英学校(大阪)・
 高等師範学校・立教女学校・
東京外国語学校・
 女子英学塾・早稲田大学の教授、校長などを歴任
 
動物愛護運動、清国留学生教育、人道教育、
 婦人教育にも注力

 後年は、婦人宣教師から直接学んだプラクティ
 カル・イングリッシュを武器に、巡回講演、
 ジャーナリズム、広報外交の分野でも活躍


  Black Beauty『黒馬物語』)の邦訳『肉弾』
Human Bullets)の英訳でも知られる


 作家、山本有三岳父

  
That man's the best Cosmopolite
  Who loves his native country best.
  
(from Hands all Round by Alfred Tennyson)

明治から大正を、平和を希求しつつ生きたコスモポリタン

 本田増次郎Web記念館

Web館長 長谷川勝政プロフィール
1948年生まれ 本田増次郎の兄「竹四郎」の曾孫
日本英学史学会・史談会
趣味
 本田増次郎研究
 FF11(Diplon 獣使い・赤魔道士・白魔道士・忍者
 黒魔道士:各75レベル、 錬金術 皆伝)
 音楽(ミュージカル、ジャズ、Yuming、中島みゆき) 
 近代建築史(好きな建築家:フランク・ロイド・ライト)
 油絵(若き日、大阪で松井正・東京で原良次画伯
 (いずれも二科会所属)に師事、その腕前は?)
 散歩(洗足池、大森、池上、本門寺界隈に出没)
嗜好
 洋菓子、和菓子全般^^;(アルコールはorz)
家族
 妻・息子

ほんだますじろう 本田増次郎

1866.1.15(慶應1.11.29)−1925.11.25

英文学者、教育家。岡山県出身。1883(明治16)年、嘉納治五郎の講道館に入門。84年 〔講道館『嘉納治五郎』によれば、明治15(1882)年3、4月ごろ〕嘉納らが設立した英学校弘文館で英文学を学ぶ。90年頃からキリスト教に帰依し、9月ひそかに受洗し、日本聖公会信徒となる。卓抜な語学力を買われ、嘉納校長の招きにより熊本第五高等中学校教員、のち東京高等師範学校教授を歴任。この間、イギリス教会宣教会宣教師らの懇請により大阪の高等英学校(桃山学院)副校長や立教女学校(立教女学院)校長も務める。The American Humane Societyの運動に共鳴し、自らも人道教育会の設立を試み、運動の一環として『黒馬物語』の翻訳(1903)を行う。日露戦争中は〔正確にはポーツマス講和会議直前〕官命により留学〔当初は高等師範学校を休職して渡米、留学の発令は1907年3月31日である〕。ポーツマス講和会議を機にジャーナリストとしても活躍し〔渡米後4年間は米英で巡回講演者として活躍。ジャーナリストとなるのは帰米後〕、ニューヨークのThe Oriental Reviewの主幹として英米有力紙に日本の立場を論じた。12年〔正しくは11年6月28日〕コネティカット州トリニティ大学から名誉文学博士号を受ける。またパリ講和会議に西園寺全権の随員として出席〔随員として出席した事実は確認出来ていない。表向きは国際新聞協会委員の資格で新聞記者の動向調査に赴いたとされるが、実際は日英同盟更改問題を中心とする欧米の情報把握が主な目的だったと思われる〕。帰国後は多忙な執筆活動の間を縫って教会役員などを務めた。正倉院美術の英文目録作成中に東京で死亡。娘はなは作家山本有三の妻。[文献]『英語青年』54:9(1926.2)(石井陽三)

(日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988年 



 画像資料



講道館寒稽古の皆勤賞(提供:本田穣氏。大倉となっているのは、当時大倉と養子縁組をしていたため)





弘文館・講道館時代(東京一番町、写真師武林盛一)(提供:本田穣氏)
中央下:本田(大倉)増次郎、中央上:西郷四郎。左:宗像逸郎、右:尼野(中嶋)源二郎
(人物の特定に関しては、講道館図書資料部の本橋端奈子氏にご教示を賜りました)




 渡米時の休職認可書(国立公文書館蔵)
 この明治38年7月15日付の認可書に基き、文部省は同月17日に休職辞令を本田に交付、本田は
 その翌日の18日、横浜港からシベリア号でサンフランシスコに向かう。本田が留学となるのは、滞米
 中のことで、それは明治40年3月31日である。





 The Oriental Review  (本田が外務省嘱託として発行した対米広報誌)
  Vol.1-No.8, February 25, 1911
  Masujiro Honda・・・・・・・・・・・・Editor
  Tsunego Baba・・・・Associate Editor
        Motosada Zumoto
    Director and Contributing Editor
       (Tokio, Japan)





 嘉納治五郎夫妻が連名で本田増次郎に宛てた葉書(提供:矢島陽氏)
 (黒の墨蹟が治五郎、赤が妻女の須磨子。大正11年2月28日付)





本田の宮内省入りを伝える大正11年2月17日付『読売新聞』の切り抜き(矢島陽氏提供)
この記事の3日前の14日、本田は大臣官房事務嘱託の任命を受けている。(『宮内省省報』第138号、
大正11年3月10日)





記念写真を絵葉書にしたもの(矢島陽氏提供)
本田は晩年、奈良の正倉院を度々訪れ、英文による正倉院案内記の執筆に染手したが、完成を
前に没した。左:本田増次郎。右:娘婿山本有三





岡山県久米郡美咲町に帰った本田増次郎。
左から、母:八重子、父:黙蔵翁(杢蔵)、本田増次郎。増次郎の墓石には十字架が刻まれ、
従五位英文博士の肩書きが付けられている。



高等師範学校履歴簿








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