
立教女学校校長就任の頃
(写真提供:本田穣氏)
「辞世の句」
西東さすらふ吾をかへりみし
なつかしの友よすこやかにませ
ぬば玉の闇やぶりつつ吾魂は
光もとめて天かけりゆく
青丹よし奈良にしあればなかなかに
たのしかりけり身はやみぬとも
出典:内野倉富美子「本田先生の辞世」『英語青年』本田増次郎氏追悼号 大正15(1926)年2月15日
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家系図![]()
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嘉納治五郎の愛弟子 講道館柔道三段
第5高等中学校(熊本)・高等英学校(大阪)・
高等師範学校・立教女学校・東京外国語学校・
女子英学塾・早稲田大学の教授、校長などを歴任
動物愛護運動、清国留学生教育、人道教育、
婦人教育にも注力
後年は、婦人宣教師から直接学んだプラクティ
カル・イングリッシュを武器に、巡回講演、
ジャーナリズム、外交の分野でも活躍
Black Beauty (『黒馬物語』)の邦訳、『肉弾』
(Human Bullets)の英訳でも知られる
作家、山本有三岳父
That man's the best Cosmopolite
Who loves his native country best.
(from Hands all Round by Alfred Tennyson)
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本田増次郎Web記念館
ほんだますじろう 本田増次郎
1866.1.15(慶應1.11.29)−1925.11.25
英文学者、教育家。岡山県出身。1883(明治16)年、嘉納治五郎の講道館に入門。84年 〔講道館『嘉納治五郎』によれば、明治15(1882)年3、4月ごろ〕嘉納らが設立した英学校弘文館で英文学を学ぶ。90年頃からキリスト教に帰依し、9月ひそかに受洗し、日本聖公会信徒となる。卓抜な語学力を買われ、嘉納校長の招きにより熊本第五高等中学校教員、のち東京高等師範学校教授を歴任。この間、イギリス教会宣教会宣教師らの懇請により大阪の高等英学校(桃山学院)副校長や立教女学校(立教女学院)校長も務める。The American Humane Societyの運動に共鳴し、自らも人道教育会の設立を試み、運動の一環として『黒馬物語』の翻訳(1903)を行う。日露戦争中は〔正確にはポーツマス講和会議直前〕官命により留学〔当初は留学でなく、途中から留学の任命がなされる。ただし留学は名目のみで実際は外務省の仕事〕。ポーツマス講和会議を機にジャーナリストとしても活躍し〔当初は米英で巡回講演者として活躍。英国より帰米後ジャーナリストとなる〕、ニューヨークのThe Oriental Reviewの主幹として英米有力紙に日本の立場を論じた。12年〔正しくは11年6月28日〕コネティカット州トリニティ大学から名誉文学博士号を受ける。またパリ講和会議に西園寺全権の随員として出席〔随員として出席した事実は確認出来ていない。表向きは国際新聞協会委員の資格で新聞記者の動向調査に赴いたとされるが、実際は日英同盟更改問題を中心とする欧米の情報把握が主な目的だったと思われる〕。帰国後は多忙な執筆活動の間を縫って教会役員などを務めた。正倉院美術の英文目録作成中に東京で死亡。娘はなは作家山本有三の妻。[文献]『英語青年』54:9(1926.2)(石井陽三)
(日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館 1988年)